(田村憲久厚労大臣の冒頭あいさつ)
第1回の医薬品等行政評価・監視委員会は2020年9月28日、就任してまもない田村大臣も臨席(途中退席)され開催された。
この委員会に選出された9名の委員の中になぜか、私の名前が存在している。私は、不思議な巡り合わせで委員会委員に選出されたが、それはこの委員会ができるまでの過程と背景(薬機法改正)によるところが大きい。それを少し説明したいと思う。
私は、薬害肝炎全国原告団東京1次原告(原告13番)として裁判に加わり、2003年から、本人の代わりに再発防止活動をしなければならなかった。
それが姉の残した私たちへの遺言であったからだった。2002年秋、これからはじまる薬害肝炎訴訟に参加することを決断し、長い、苦しい年月を経た先に一筋の光を見出そうとしていた姉はそのわずか半年後、法廷で思いを語ることも訴えたい相手と向き合うこともかなわず、「二度と自分と同じ思いの人を出さないでほしい。」と言う言葉を残しこの世を去った。
にじみ出た無念の姿をしっかり凝視し、映像を裁判所に提出し、私は裁判に、そして再発防止活動に向かいあってきた。手探りで、呪文のように「再発防止」、「再発防止」、「薬害根絶とは・・・」と四六時中あたまのなかで自問しながらすごした歳月であったと思う。
和解により設置された「薬害肝炎事件の検証及び再発防止の為の医薬品行政のあり方検討委員会」がまとめた「最終提言」には、薬害の再発防止には、薬害が医学的・社会的にまさに薬害として認識される過程に存在する薬事行政の様々を(安全性・有効性)の視点重視に変えなければと、その冒頭に『二度と薬害を起こさない、そして国民の命をしっかりと守ることのできる医薬品行政を目指すべく、薬害を再発させないことを目標とする抜本的改革に着手する必要がある。国は政府全体として、この改革に取り組むべきである。』との認識を示し医薬品行政機関の評価・監視機関の創設が望ましいと記載された。
紆余曲折を経て、令和元年11月27日に衆参可決で通過した改正薬事法に新設で第14章76条「医薬品等行政評価・監視委員会令」が入った。令和2年3月11日政令が制定され、施行は同年9月1日と定まった。しかし・・・・・、骨組みはできたが、中身がまだ存在しない新しい箱のような委員会をどのように肉付けし、最終提言で記載された「透明性」、「独立性)」、「機動性」を確保できるかの作業部会の打ち合わせが頻繁に行われ、かなりの時間をこれに充てて原告団弁護団で頑張った。
私たちは、まず、委員会は規制当局が選出した委員で透明性が確保できるか否かを問い、結果、選任委員会を設置する方向に厚労省が動いた。厚労省が選んだ4名の委員のうち、3名の委員は薬害肝炎事件や薬害に関係する委員であった。7月から8月を経て、選出された委員名に私が入っていたことは冒頭の不思議なめぐりあわせであった。
法律を作るまでが使命と活動し、たどり着くまでの年月は決して短くなかったから、漸く肩の荷を下ろすことができたとおもっていたつかの間、突然、この先もこの事案にかかわり、苦難の作業に携わらなければならない立場を引き受けよ、と命が出たわけであったから、正直、大変失望し、それに加えて覚悟の錯綜した気分に見舞われた。
しかし、選考委員から掛けられた言葉は厳しいものであった。
私にのぞまれたのは、これまでをさらに活かせ、まだ、すべきことは終わっていない、と。これは使命だったのかもしれない。こうして、現在がある。
(東京原告団泉祐子と全国原告団代表浅倉美津子)
大臣官房に設置された委員会室はすでに、監視委員会と取り組む姿勢を見せているが未知である。
すでに委員と委員会室のzoom会議や、次回、次々回までの開催日を決定し、それに向かって、活動が日々始まっているが、足元を戻ってみれば、薬害肝炎事件はなぜ起きたか、薬害防止の可能性を原因論で語るに、疫学的アウトブレイクの確認/利益相反/安全情報の不明確さ/疫学的データ収集の遅さ・稚拙さなどなど、解決するためにするべきことがあまりにもたくさんあるように思える。
今回の薬機法改正では「さきがけ審査指定制度」と「条件付き早期承認制度」も法律として成立している。見張り、正しく、薬害の再発防止のための意見を出していくには山盛りの作業をこなしていくこれからになりそうだ。